わづかのれきし
沿革(えんかく)
安積親王[聖武天皇第五皇子]陵墓(あさかしんのう[しょうむてんのう だいごおうじ]りょうぼ)をはじめ、古い時代の遺跡(いせき)、地名などが随所(ずいしょ)にのこっており、弥生時代(やよいじだい)には、この地にも集落(しゅうらく)が形成(けいせい)されていたことが推測(すいそく)されます。
奈良時代(ならじだい)には、恭仁京(くにきょう)と紫香楽宮(しがらきのみや)をむすぶ交通路(こうつうろ)としてひらけました。そして、平安時代(へいあんじだい)から鎌倉時代(かまくらじだい)には、この地は、和豆香杣之荘(わづかそまのそう)、和束荘(わづかそう)などとよばれ、おもに寺社(じんじゃ)の用材(ようざい)をかりだすための領地(りょうち)となっていましたが、江戸時代(えどじだい)の初期(しょき)、二代将軍秀忠(にだいしょうぐん ひでただ)の娘(むすめ)が天皇(てんのう)の中宮(ちゅうぐう)となられたとき、この地を化粧料(けしょうりょう)として朝廷(ちょうてい)へ献上(けんじょう)され、皇室(こうしつ)の直轄地(ちょっかつち)[禁裏御料地(きんりごりょうち)]として、独自(どくじ)の文化をはぐくんできました。
昭和(しょうわ)28年8月には、南山城大水害(みなみやましろだいすいがい)により、多大(ただい)の被害(ひがい)をうけましたが、その後、昭和(しょうわ)29年に西和束村・中和束村・東和束村が合併(がっぺい)して和束町が誕生(たんじょう)し、昭和31年には湯船村(ゆふねむら)を編入(へんにゅう)して今日にいたっています。
水と緑(みどり)が生きている自然(しぜん)豊(ゆた)かな町
和束町は相楽郡(そうらくぐん)の東部(とうぶ)にあり、町の中央(ちゅうおう)を和束川がながれ、古くは興福寺(こうふくじ)などの荘園(そうえん)として繁栄(はんえい)しました。
また、宇治茶(うじちゃ)の主産地(しゅさんち)としてもしられ、煎茶(せんちゃ)の生産量(せいさんりょう)は京都府下第1位(きょうとふか だい1い)をほこっています。豊(ゆたか)かな自然をいかした公園や遊歩道(ゆうほどう)なども整備(せいび)がすすめられ、やすらぎと憩(いこ)いの場(ば)としておとずれる人がふえてきています。
京都府(きょうとふ)の南部(なんぶ)、滋賀県甲賀市(しがけんこうかし)にせっする位置(いち)に和束町があります。
位置(いち)
- 東経135度54分28秒(とうけい135ど 54ふん 28びょう)
- 北緯34度47分32秒(ほくい34ど 47ふん 32びょう)
面積(めんせき)
- 64.93平方(へいほう)キロメートル
- 東西(とうざい)15キロメートル
- 南北(なんぼく)10キロメートル
土地の利用状況(りようじょうきょう)
- 総面積(そうめんせき)6,493ヘクタール
- 農地(のうち)607ヘクタール
- 山林(さんりん)4,949ヘクタール
- その他(た)937ヘクタール
人口・世帯数 (じんこう・せたいすう)
- 人口(じんこう)4,482人
- 男 2,111人
- 女 2,371人 世帯数(せたいすう)1,509世帯
[平成22年(へいせい17ねん) 国勢調査(こくせいちょうさ)]
更新日:2024年09月30日