わづかおちゃのれきし

更新日:2021年04月01日

和束茶(わづかちゃ)の歴史(れきし)はあきらかではありませんが、鎌倉時代(かまくらじだい)に加茂町(かもちょう)の海住山寺(かいじゅうせんじ)にいた高僧(こうそう)「慈心上人(じしんしょうにん)」が茶業興隆(ちゃぎょうこうりゅう)の祖(そ)といわれる「栂尾(とがのお)の明恵上人(みょうえしょうにん)」から茶の実をわけてもらい、鷲峰山(じゅうぶざん)[686.7メートル]山麓(さんろく)に栽培(さいばい)したのがはじまりといわれています。

また、天正年間(てんしょうねんかん)[1573~1592年]には、和束郷原山(わづかごうはらやま)のちに57アールほどのはたけをひらき茶の実をまいたという記録(きろく)がのこされていますが、その当時の製茶法(せいちゃほう)はきわめて幼稚(ようち)なもので自家用につかっていたようです。

そのご、元文3年(げんぶん3ねん)[1738年]に和束のとなりの宇治田原(うじたわら)の永谷宗円(ながたにそうえん)が煎茶法(せんちゃほう)をこうあんしましたが、和束町ではそれ以前からお茶の販売(はんばい)をしていた記録があります。[宝栄6年(ほうえい):1709年大智寺所蔵文書(だいちじしょぞうぶんしょ)より]

そのころからお茶の栽培(さいばい)がふえてきて、製茶を専門(せんもん)にする農家(のうか)もではじめました。
また、江戸時代中期(えどじだいちゅうき)からお茶の保護施策(ほごしさく)により茶業は一層発展(いっそうはってん)しました。

江戸時代からの主な出来事

天保年間(てんぽうねんかん)[1830~1843年]

茶商の筒井嘉兵衛(つついかへえ)は、江戸へも茶を出荷(しゅっか)[取引量600キログラム]する。

安政5年(あんせい5ねん)[1858年]

広島に茶店(さてん)をいとなんでいた原山(はらやま)の久保八郎衛門(くぼ はちろうえもん)が松平氏の御茶御用(おちゃごよう)となり和束茶を広める。

慶応3年(けいおう3ねん)[1867年]

神戸港のかいこうとともに和束からも商館(しょうかん)をもうけ外国との貿易(ぼうえき)をおこなう。

明治13年[1880年]

米国(べいこく)が日本茶の輸入(ゆにゅう)を禁止(きんし)[そのえいきょうで生産量がさいていとなる。]

明治34年[1901年]

米国(べいこく)の課税廃止(かぜいはいし)により貿易再開(ぼうえきさいかい)。

大正初期

お茶の製造方法(せいぞうほうほう)が手揉(ても)みから機械製法(きかいせいほう)にかわり茶業経営(ちゃぎょうけいえい)も合理化(ごうりか)されるなど、農家の増産意欲(ぞうさんいよく)をかりたて、天恵(てんけい)の立地条件(りっちじょうけん)とあいまって和束農業のちゅうしんとなる。

近年

そのご、お茶の生産量は第2次世界大戦で食料増産(しょくりょうぞうさん)のため茶畑が転作(てんさく)されるなど激減(げきげん)しましたが、戦後は国の復興(ふっこう)とともに茶価(ちゃか)の高騰(こうとう)がぞうさんいよくをうながし、今日のように「お茶は和束」といわれる茶産地(ちゃさんち)になりました。

和束のお茶受賞歴(じゅしょうれき)

  • 平成元年 第43回全国茶品評会農林水産大臣賞(だい43かい かんさいちゃひんぴょうかい のうりんすいさんだいじんしょう)・産地賞等受賞(さんちしょうとうじゅしょう)[煎茶(せんちゃ)の部]
  • 平成5年 第46回関西茶品評会農林水産大臣賞(だい46かい かんさいちゃひんぴょうかい のうりんすいさんだいじんしょう)・産地賞等受賞(さんちしょうとうじゅしょう)[煎茶(せんちゃ)の部]
  • 平成10年 第53回全国茶品評会農林水産大臣賞(だい53かい かんさいちゃひんぴょうかい のうりんすいさんだいじんしょう)・産地賞等受賞(さんちしょうとうじゅしょう)[煎茶(せんちゃ)10キログラムの部]
和束のお茶は日本茶の最高峰(さいこうほう)なんだって!

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